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2012年 02月 02日
![]() 寒いよ〜〜。古いボロ家のうちなど、朝起きたら部屋のなかが4℃だった。イヌイットの家より寒い。しかし今日、船大工の娘が言うことには、先月末どういうわけか知らないが、2日間で出資者が一気に3、40人も増え、いままでこんなことはなかったので驚いていたという。このファンドの話があったとき、船大工の兄弟はそんなことをしてくれる人などいるのか?と半信半疑だったが、それでも一人でも応援してくれる人がいれば頑張れると思って応募したのだそうだ。それがもう出資者は357人にもなり、見ず知らずの人がそんなにおおぜい応援してくれるなんてと感激しているという。 「へぇ、どうしてだろうね?」と私は言ったが、人知れず応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。もし配当金が出たら、いっしょに飲みましょう(爆) 2012年 01月 27日
![]() 以前NHKの「クローズアップ現代」でも紹介されたことがあるので知っているひとも多いと思うが、被災した小規模のお店や工場の復興に「セキュリテ被災地支援ファンド」というのがけっこう力を発揮しているらしい。国や県が何かしてくれるとはハナから思わず、自力でなんとか店や会社を立て直そうとがんばっている人たちは多いが、いかんせん資金がない。銀行はお金を貸してくれないし、大口投資家が目を向けてくれることなど期待できそうもない。そういうときに、ふつうの市民が一口5000円から出資して極小企業の再建を支援しようというシステムだ。 仙台市郊外の七ヶ浜というところでつくっていた海苔は本当に美味しくて、その近くのコンサートホールに行ったときなどに私もよく買ってきていたが、そこも津波でぜんぶ流された。もう廃業しようと思ったらしいが、このファンドに助けられて再出発した。朴訥だがユーモアあふれる海苔店のおじさんの訴えが人気を呼んで、募集口数の1560口はあっという間に集まったそうだ。今度の震災では何かできることをしたいと思っているひとが本当に多いんだなあと思う。 このファンドは出資金5000円+支援金5000円+取扱い手数料500円=10500円で一口になっている。自分が投資家になるなどと夢にも思わなかったふつうの市民が、自分で出せるだけの金額を自分が選んだ企業に出資して応援するという画期的なシステムだ。半分は寄付だが、半分は万が一(^^;)その企業が大成長すれば配当が付いて戻ってくる。もちろん、ぽしゃってぜんぜん戻ってこないリスクは大きい。要するに、残ってほしいと思う店や産業を、貧者が一灯をともすように(もちろん長者が万灯をともしてくれればもっといいですが)応援する心意気だ。例のマフラーを織ってくれた船大工の息子さんたちも工場再建のために出資者を募っているし、おいしいお酒や醤油づくりを続けてもらうために支援することもできる。 * 写真は私の食生活を支援してくれる友だちからの自家栽培夏みかんマーマレード。ど〜んと2.8kg! 2012年 01月 24日
![]() 今月新刊の新潮文庫では、高峰秀子の『わたしの渡世日記(上下)』が断然面白い。なにしろ5歳で子役としてデビューし、昭和6年の日本のトーキー映画第一作から主だった映画監督の作品のほとんどに出演してきた女優の回想記だから、古い日本映画が好きな人には綴られているエピソードのどれもがたまらなく面白いだろうし、そうでない人にも、ほとんど学校教育を受けなかった一人の「職業婦人」(と彼女は自分を呼んでいる)が、出会った人々からどんなふうに知識を吸収し、人間と世界を学び、深い知性を養っていったかがわかって面白いだろう。 有名な監督や俳優はもとより、太宰治、志賀直哉、梅原龍三郎、昭和天皇などなど、錚々たる名が次から次に出てくるが、なかでも面白かったのは新村出博士の話だ。かの有名な『広辞苑』の編者は高峰秀子の大ファンだったらしく、ぜひ会わせてあげたいという谷崎潤一郎に連れられて新村博士の家に行くのだが、玄関を入ると、ナショナルの電気釜を持ってにっこりしている自分のポスターなどがベタベタ貼られていて彼女はぎょっとする。書斎でポスターに囲まれてテレ笑いしている優しげなおじいさんの写真も載っている。だが何度か行き来しているうちに、「『広辞苑ってなにさ? 日本料理屋かぁ?』などと言ってテンとして恥じない粗末な女である」高峰秀子は、その鋭い感受性で彼の人品を見抜き、亡くなったあとも新村博士は「私の守護神」として自分のなかに生き続けている、と言うのだ。 *今日のごはん ![]() 寒いので、ストーブにかけておくだけの簡単鍋料理ばかりなり。 酢漬けのキャベツとタマネギとじゃがいもとベーコンとソーセージを白ワインで蒸し煮する。ま、いちおうシュークルートというものでしょうか〜。 2012年 01月 19日
![]() 太陽光発電機を導入。というのは大げさだが、 文庫本くらいの大きさのソーラーパネルでもけっこう携帯電話の充電に使える。裏に単三電池型の充電池が2個ついていて、USBに出力しないときは常時それに充電するようになっている。日のあたる窓際に吊るしておけば、お天気さえよければワイヤレスのマウスとか電子辞書くらいの電源にはなる。まあ、自分でできるところから。 *今日のおやつ ![]() おかき。鏡餅を金槌で割り、からっと揚げて塩を振る。こういうのをつくってみると、おかきって餅だったんだと改めて気づく。無造作にぽいぽい口に放り込んでいると、たいへんなことになるで。 2012年 01月 12日
![]() 寒い。今日このあたりの最高気温は1℃で、日本じゅう今年いちばんの冷え込みだそうだ。紋別沿岸に流氷が着いたとラジオのニュースで言っていたので、思い出して写真を探してみた。写り込んでいる日付を見ると97年2月10日になっている。当時、札幌に住んでいた友だちが呼んでくれて、いっしょにオホーツク海の流氷を見にいったのだった。確か、札幌丘珠空港から小さなプロペラ機で紋別まで行き、ガリンコ号という巨大なドリル付き砕氷船に乗って分厚い氷をバリバリと砕いてまわった。このときの紋別の気温は−15℃だった。物好きだったなあと思う。 ![]() いまはもう寒くてどこにも行く気になれないから、あのとき行っておいてよかった。炎天下の島の一本道を自転車で走ることも、危険な山をさまようことも、怪しげな町を歩いて、ベッドのスプリングが床に付きそうな安宿に泊まることも、みんな若いときにやっておいてよかった。いまとなっては、ただもう物好きとしか思えない。 2012年 01月 05日
![]() お正月料理の残りもの処理となれば、そりゃやっぱり、ちらし寿司か茶碗蒸しか闇鍋でしょう。というわけで、新しい年が明けたと思ったら、もう5日。ぼやぼやしてると、またすぐ暮れが来る。 今年は初めて伊達巻きをつくってみた。伊達巻きというのはただ甘ったるいだけで嫌いだったのだが、暮れの新聞に作りかたというのが載っていて、そうか、甘くないのを自分でつくればいいんだと思いついた。エビを擦りつぶして溶き卵を混ぜ、じゃっと焼いて巻くだけで簡単につくれるというのは驚きだった。ものを知らないと学ぶことが多くて有益な人生である(爆)。 今日は用事があって街に出なければならなかったが、ものすごく寒かった。日陰になった道路がつるつるに凍っていて、慎重に歩こうとするのに風速20メートル余の恐ろしく冷たい風に後ろから煽られて危なかった。帰り道、通りかかったデパートで早くもセールをやっていたので、「早買いのおK」の異名をとる私は10分でブーツと手袋を買った。「こういう底なら走れそう」と言うと、「お客さま、危ないので走らないでください。くれぐれも気をつけてお歩きになってください」と店員さんに諭された。あー、はいはい。 ![]() 2011年 12月 30日
![]() ばたばたしているうちに2011年も明日限り。来年の手帳を買った。このところずっと自分でつくった手帳を使っていたが、今年は世評高い高橋手帳を買ってみた。いろいろ工夫されたこんな嵩張らない手帳が945円で買える。めずらしく赤の気分。その下は韓国のカレンダーだが、意外に洗練されていておしゃれ(とか思ったりするのも偏見であることを今年学んだ)。 今年は本当にひどい年だった。多かれ少なかれみんなの生活と気持ちが変わった。まだぜんぜん事態は収束していないし、自宅で年を越せない友だちも何人かいるが、なんとかその変化がいい方向に行くように、気もちを明るくして、来年も楽しく学び、遊ぼう。 今年もおつきあいくださってありがとうございました。 みなさま、どうぞよいお年を。 2011年 12月 22日
![]() 手織りのマフラーをいただいた。なんとこれは友人のおとうさんの、79歳になる船大工の手織りなのだ。津波で石巻の家と工場を流されて、いまは仙台の借り上げ仮設(賃貸マンション)で暮らしているが、することがなく、その後大病もしてすっかり元気をなくしているので、娘ははじめ折り紙を勧めた。おとうさんはまじめに紙を折り、毎日孫たちに複雑な折り紙をつくってやっていたが、そのうち飽きたというので、うちで生まれたちび金魚を持っていってあげた。するとまめまめしく世話をし、一日中見つめているので、魚はストレスで死んでしまった(と、友人は言う)。 そこで娘は自分の卓上手織り機を持っていって織りを教えた。おとうさんはたちまちそれに熱中し、だんだん経糸の張り具合や糸の引き具合の要領をつかんで、一日一本ずつマフラーを織り出した。そしてちょっと手伝ってもらったひとなどにプレゼントしているのだ。毎日、糸を供給しなければならない娘は大変らしいが、おとうさんが元気になって張り切っているので、ほっとしている。 やっぱり職人なんだねぇ、職人は手を動かさずにはいられないんだねぇ、早く造船の仕事に戻れるといいけどねぇとみんなで言っている。 2011年 12月 18日
![]() 10月にはアップル創設者のスティーブ・ジョブズが亡くなった。死後まもなく発行されたジョブズ伝記は世界中でベストセラーになっているらしい。私は読んでないからこのひとの生い立ちなどは知らないが、classicII、Performa、スケルトンの初代iMac、丸い電気スタンド型iMac、いまの21インチiMacと、ずっとアップルのパソコンを使ってきたから、このひとがどれだけ斬新でしゃれた面白いものをつくってきたかは知っている。 訃報が伝えられたときはアップルストアに献花に行ったユーザーがおおぜいいたそうだ。失敗も多かったし悪口もだいぶ言われたひとらしいが、たとえばWindowsの開発者が亡くなったとして、ヤマダデンキなどに献花に行くユーザーがいるだろうか?(←偏見) 「スティーブに捧げる」と書かれたiPhoneケースまで出た。ここに書かれている年号はスティーブ・ジョブズの次のような足跡を示しているという。 1955 2月24日カリフォルニア州サンフランシスコに生まれる 1976 アップル社設立(21歳!) 1984 マッキントッシュ発売 1997 アップル社に戻って暫定CEO(最高執行責任者)に就任 2011 10月15日永眠 2011年 12月 13日
![]() 今年も「ゆく年くる年」の季節が近づいたかと思うとびっくりだが、時節柄ゆく年をふり返ってみるに、やっぱりいちばん大きいできごとは3月11日の大震災だった。で、この本。『河北新報のいちばん長い日』(河北新報・著/文藝春秋刊) 電気もガスも水道も止まったあの晩、絶え間なく続く余震のなかで、ダウンジャケットを着たままふとんに潜って眠れない夜を過ごしたが、明け方4時近くにバイクの音がして玄関の郵便受けにバサッと新聞が投げ入れられたのには本当に驚いた。思わず、えらい!えら〜い!えら〜〜い!!と3回言ったのを覚えている。あの状態のなかでよく新聞を発行して届けて歩いたものだと感心したが、この本を読むとどういうひとたちがどんなふうに頑張ってそれを可能にしたのかがわかる。携帯電話もインターネットも通じなかったあの数日間、情報源として役に立ったのは、時代遅れになりかかっていた新聞と小さなラジオだった。 その「河北新報」に載っていた、宮古市の4歳の女の子が行方不明の母親へ宛てて書いたという手紙。 ままへ いきてるといいね おげんきですか
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